地の道をゆく、地の道をひらく

日本酒を介して、いかにこの地を伝えるか。地に眠る魅力は、地酒を通して語ることができる。日本酒は、長い時間のなかで育まれてきた。それぞれの土地の歴史や風土、文化を内に抱え、単なる嗜好品にとどまらない存在である。

新しく、便利なものが次々と生まれる一方で、姿を消していくものもある。日本酒を取り巻く営みの中には、数十年後に振り返ったとき「残しておいてよかった」と思えるものが、今も確かに息づいている。だからこそ、日本酒は、その流れに静かに抗ってみてもいいのではないか。ただ昔の形を守るのではない。今という時代に、私たちが何を受け取り、何を加えていくのか。

伝統は「残さなければならないもの」ではなく、「残したいと思えるもの」として繋いでいきたい。

それは、刷新ではなく、更新である。

歴史

1 | 創業
2 | 戦国時代
3 | 江戸前期
4 | 江戸後期
5 | 明治
6 | 大正
7 | 昭和
8 | 現在
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冨田酒造は、天文年間(1532〜1555)初期の創業の酒蔵です。初代高保が母方の縁を頼り木之本へ移り、武士の身分を離れ酒を造るようになったと伝わります。
ここ木之本では、飛鳥時代の675年に、祚蓮(それん)が浄信寺(木之本地蔵院)を創建。空海、足利尊氏などが崇敬を寄せ、一帯の寺院の中心的役割を担っていきます。さらに北陸と都を結ぶ要衝の地であったことから門前町であり宿場町として形成され、冨田家も街道沿いで家業を営むようになります。醍醐寺の僧による1563年の旅の記録には「木之本にて、酒以下に十六文を費やす」とあります。
木之本がある滋賀県北東部「湖北地域」には、古代日本の有力な豪族・物部氏と関わりがあるとされる物部古墳群のほか、多数の古刹があります。また当蔵から約2km東方にある己高山は、古来より山岳信仰の霊場でした。平安時代、最澄の再興などにより、湖北一円の寺々を傘下として独自の仏教文化が開花、その後、観音信仰として民衆に広まっていきました。

初代高保にまつわる岩を祀る「岩神」
「木之本宿絵図」下川太右衛門家文書|上段
「永禄六年北国下り遣足帳」国立歴史民俗博物館 所蔵|下段

戦国時代の湖北は、その立地の重要性から常に覇権争いの中心地でした。湖北地域を支配していた浅井長政は織田信長との同盟を破棄し、敵対。姉川の戦い、浅井氏の居城であった小谷城の戦いなど湖北地域での激戦を経て、小谷城は落城。この間に信長は湖北一帯の寺院などを焼き討ち、浄信寺も焼失しました。
その後の本能寺の変を経て、信長の跡目をめぐって羽柴(豊臣)秀吉と柴田勝家が争ったのが、賤ヶ岳の戦い(1583年)です。秀吉が浄信寺を本陣とし指揮を執るなかで、勝家軍の猛攻をしのぎ勝利の立役者となった若武者たちが「賤ヶ岳の七本槍」でした。
浄信寺は、秀吉の世継・秀頼の命で片桐且元が再建。秀頼が寄進した擬宝珠が今も残ります。

「江北賤嶽戦場之地理図絵」滋賀県立図書館 所蔵
「賤ヶ岳合戦図屏風(右隻)」長浜城歴史博物館 所蔵

幕府は1657年に酒株制度を設け、石高制限などを敷いた免許制にしています。当時全国にはおよそ27000軒の造り酒屋があったとされ、1696年の「彦根御領分中酒造株控」によると冨田家は14石を製造していたとされます。
木之本は宿場町として発展。1698年の「木之本村庄屋十右衛門・同喜右衛門留記」では一帯の様子が伝えられています。これによると浄信寺以南の家数は119軒、以北は74軒が立ち並び、参勤交代の大名の宿泊所になった本陣(現竹内家)はじめ、脇本陣、問屋や旅籠などのほか10数戸の商店があったとされます。その1軒が冨田家で、浄信寺のそば、本陣の斜め向かいという立地でした。街道の中央には水路が通り、柳が植わっていたとされ、その景観は昭和初期まで続きます。
当時参勤交代で北陸と江戸を往来する大名の、近江(滋賀)での宿泊地の一つが木之本であり、加賀藩前田家が本陣に宿泊したほか、後年には11代将軍徳川家斉の娘溶姫が前田家に輿入れする際に木之本へ滞在、寝具が3000人分用意されたとの記述も残ります。

「近江国絵図/元禄(1701年)」滋賀県立図書館 所蔵
「彦根御陵分中酒造株控」ほか 当蔵所蔵

1700年代に木之本は2度の大火に見舞われ(1739、1744年)冨田家も焼失します。1744年に7代忠良が西江州(現高島市)から建物を移築し主屋を再建。この建物は木之本で最古級の町家建築として国の登録有形文化財にも指定(2019年)されています。
さらにその5年後には土蔵や文庫蔵を新築し、1769年には井戸を掘り替え。さらに9代忠之が1812年に蔵を建て替えます。現在も井戸から汲み上げた水は酒の仕込み水として用い、蔵は仕込み場として使われています。
江戸後期、度重なる飢饉などにより、幕府の財政は逼迫。全国の造り酒屋は石高を減らし、冨田家でも同様に製造量が激減しました。

「近江国農商工便覧」長浜城歴史博物館 所蔵
仕込み水を汲み上げている井戸

政府が近代化を推し進めるなか、木之本の地域発展に携わったのが11代忠利でした。1871年の小学校開設を皮切りに、社会救済事業団「伊香相救社」(いかそうきゅうしゃ)の設立、さらには「江北銀行」の創立などに関与。また古くから養蚕が盛んだった木之本の特性を活かし「木之本製糸株式会社」を設立して自ら社長に就任し、新産業の育成にも心血を注ぎました。
1878年には明治天皇が北陸へ巡幸、行在所として浄信寺に宿泊。帯同した岩倉具視が冨田家に宿泊しています。
現在JR木ノ本駅前にある「江北図書館」は現存する私設図書館としては日本最古級であり、1907年に開館。もともとは隣町余呉町出身の弁護士が地域のために創設した杉野文庫が由来で、12代八郎から14代光彦までが館長を務めました。

大福帳 当蔵所蔵
「明治天皇御巡航ニ付御布達類并所持留記」当蔵所蔵

八郎は醸造の研究に勤しみ、県外の酒どころに倣うなどして品質向上に努めました。滋賀県内での酒品評会ではたびたび七本槍が1等に選出されました。その後「七本鎗」として商標登録。宮内省(今の宮内庁)御用品に選出されるなどしました。
その傍らで、木之本を含む伊香郡(平成の合併により郡名消滅)全体の日本酒の品質向上をめざして醸造試験場を設立し、「伊香酒」の評価を高めていきました。
また八郎は文化人としての側面を持ち合わせてもいました。その縁で、北大路魯山人が冨田家に逗留し、数作品を制作。魯山人が福田大観と名乗っていた頃のことで、そのひとつ「七本鎗」の篆刻の文字は、現在ラベルに用いています。

犬養木堂(毅)の書
「七本槍醸造部員記念撮影」の垂れ幕を掲げた集合写真(左)12代目 冨田八郎(右)
「[廣告]賜 天皇陛下御料酒之光榮」 当蔵所蔵

木之本では、室町時代から北国街道沿いで牛馬市が開かれていました。江戸時代には藩の保護を受け、地元近江をはじめ各地から数百頭以上も牛馬が集まり売買・交換されるほどの盛況でしたが、昭和初期に終焉。今も冨田酒造のほか街道沿いの数軒の屋敷前に馬つなぎの金具が残っています。
1935年に「農業試験場 湖北分場」が設立。風土に適応した稲作の改良や農業技術の向上をめざした機関で、研究や実地指導が行われました。この頃、当時の水稲主力品種「神力」に代わって在来種「滋賀旭」が注目され、急増。戦時中も酒造りは行われ、「昭和16年度醪経過表」では、滋賀旭の名が見られます。しかしながら戦後は生産が減少していき、幻の品種となっていきます。
昭和後期、冨田酒造では一時的な休蔵に追い込まれてしまいます。この窮地を現当主15代泰伸の母起代子が乗り越え、平成に入り泰伸へ後継します。

「昭和16年度醪経過表」ほか 当蔵所蔵
昭和初期の北国街道(木之本宿)の街並み

冨田酒造では、長らく能登杜氏を招聘、酒造の現場を任せ、蔵元は経営についてを担うという役割で歩んできました。 15代泰伸は2002年に蔵入り。経営者でありながら自ら蔵に入り酒を醸す「オーナー杜氏」の酒蔵へと新生し、湖北の風土と歴史文化を昇華させた「地」の酒造りを追求していきます。
地元の農家に酒米栽培を依頼、米を削りすぎない低精白純米酒や、無農薬栽培米・在来種復刻米の醸造にも取り組みます。 2005年からは「日本の酒を世界のSAKEに」と、海外輸出を開始。
2016年には仕込み蔵を増築。当蔵に残る古材や地域材を用いた伝統工法で建てたもので、ここで熟成酒の貯蔵、生酛造りの復活、木桶仕込みを再開。日本伝統の職人の技を、酒造りにも建物にも反映させ、後世に残していこうとしています。

冨田酒造有限会社

住所〒529-0425
滋賀県長浜市木之本町木之本1107
(JR木ノ本駅徒歩7分)
電話0749-82-2013
店舗営業9:00 — 17:00
定休日不定休

誠に申し訳ございませんが、酒蔵の見学は承っておりません。